お知らせ TOPICS & EVENTS

公式

イベントレポート:六古窯日本遺産プロジェクト 企画展2018「旅する、千年、六古窯 火と人、土と人、水と人が 出会った風景」 〜信楽 第1部 ガイドツアー 後編〜

2019.09.07

【企画概要】

「旅する、千年、六古窯 火と人、土と人、水と人が出会った風景」関連イベント
日時:2018年12月9日(日)
 
第1部 ガイドツアー 13:00 – 15:00
会場:滋賀県立陶芸の森 信楽産業展示館・陶芸館
観覧:本巡回企画展、陶芸の森特別展「信楽に魅せられた美の巨匠たち」
案内役:高橋孝治(六古窯日本遺産活用協議会 クリエイティブ・ディレクター)、鈎真一(滋賀県立陶芸の森 学芸員)
 
第2部 やきものや産地について語らうトーク「信楽と伊賀」 15:30 –
会場: NOTA_shop
出演者:加藤駿介(NOTA & design)、山本忠臣(ギャラリーやまほん)
進行:高橋孝治
フード:陶の辺料理魚仙 4代目主人 林田裕貴

2017年度よりスタートした六古窯日本遺産プロジェクトによる本巡回展は、2018年度、六古窯のひとつである信楽焼の産地、甲賀市の滋賀県立陶芸の森信楽産業展示館を会場としました。12月9日には関連イベントとして、同敷地内にある陶芸館にて、企画開催されている「信楽に魅せられた美の巨匠たち」を含めた鑑賞ガイドツアーを実施。またその後、本展出品作家でもある信楽を拠点とするデザイナー・加藤駿介氏のNOTA_shopにて、トークイベントを開催。信楽におけるやきものとつくり手の歴史を紐解き、産地の担い手・つくり手として活動していくことについて考える1日となりました。今回は第1部ガイドツアー後編の様子をレポートします。

第1部ガイドツアー前編の六古窯巡回展ギャラリートークでは、六古窯の全貌と中世から現代までの、信楽の変遷についてその概略をとらえた。後編は陶芸の森内の陶芸館へ移動して、特別展「信楽に魅せられた美の巨匠たち」を鑑賞。信楽ゆかりの近現代作家の産地への視点とその作品から、六古窯・信楽への理解を深めていく。

定刻となり、六古窯日本遺産活用協議会のクリエイティブ・ディレクター高橋孝治氏が、ツアーの流れを説明。特別展を企画した陶芸の森の学芸員、鈎真一(まがり・しんいち)氏を案内人にガイドツアーを行う。ガイドツアーには、地元信楽の関係者をはじめ、子ども連れの家族や陶産地で活動する若いつくり手など、およそ20名が集まっていた。

信楽で本格的にやきものづくりがはじめられたのは、700年ほど前の鎌倉時代・13世紀の後半だと考えられている。当初は壺や甕(かめ)そして擂鉢(すりばち)など生活器を焼造、室町時代・15世紀から桃山時代には茶陶で知られるようになる。また、近世は登り窯が導入されるとともに、施釉陶器も生産されるようになり、この頃から地域ごとに特色がみられるようになる。例えば大物づくりの壺甕類は長野、神山では土瓶や徳利などいわゆる袋物が、そして陶芸の森があるこの勅旨では、神仏器や灯明具のような小物製品が主に焼造された。

「中世以来の伝統を誇る信楽では、焼締陶をはじめ特色あるやきもの文化が育まれてきましたが、近代以降その伝統に魅せられさまざまな作家がこの地を訪れています。陶芸や美術を代表する作家たちが、信楽の何に興味をもって訪れ、どのような足跡を残したのでしょうか。しかし、関係者には亡くなられている方も多く、彼らの信楽での活動は噂や伝承になりつつあります。本展では現段階で調査可能な信楽の交流史を、整理して後世に継承することに主眼をおき、彼らの作品(代表作と信楽の仕事)と関係資料で構成しました」と鈎氏。

展覧会は3つのテーマで構成されている。「SectionⅠ 理想を求めて-近代思潮と個人作家の挑戦」、「SectionⅡ 出会いと発見のなかに-新たな創作への揺さぶり」、そして「SectionⅢ産業とアート-作家を喚起する技術」だ。鈎氏はそれぞれの時代背景や作家・作品の詳細まで丁寧に紹介した。ここでは、各テーマを軸にその要点をまとめていきたい。

Section Ⅰ
理想を求めて-近代思潮と個人作家の挑戦

最初のセクションでは、都市の発展と地方の衰退が進展した戦前、「地方の復権」をテーマに信楽で理想を求めた、富本憲吉・河井寛次郎・濱田庄司。そして彼らの後継者として、戦後信楽でデザインの普及啓発に尽力した、日根野作三と熊倉順吉を取り上げている。

鈎氏は富本・河井・濱田が信楽に関わりはじめた動機について、「イギリス留学中にウィリアム・モリスの思想に影響を受けた富本は、芸術性の高い作品を制作する一方で、社会性を意識した仕事を手掛け、河井や濱田は産地に民藝という新たな価値観をもたらしました。こうした彼らの活動には、デモクラニズムの台頭を背景とした、社会運動としての側面が色濃く認められます」と当時の状況を交えて話す。しかし、今日私たちが想像する以上に、当時の都市と地方=産地ではものづくりに関する認識に大きな温度差があったようである。

戦後そうした課題を踏まえて、日根野と熊倉は窯元やメーカーに出向き、それぞれの特性に見合ったデザインを提案。火鉢の不振に喘いでいた産地に新風を吹き込み、現代の信楽焼の礎を築いてゆく。「富本・河井・濱田が耕し蒔いた花の種を、日根野と熊倉が水や肥料を与えて咲かせた。彼らの果たした役割は、そんな風に例えられるのではないか」と鈎氏。

▲富本憲吉 土焼鉄描銅彩大和風景大皿
良質で安価な量産品の製作を目指した富本が、信楽で既製の素地に故郷大和の自然を意匠に鉄描銅彩(鉄と銅による絵付け)で描いた作品。1929年に信楽で手がけた作品は、東京において同年5月に開催された「国画会第4回展」の会場内で即売された

▲日根野作三 青線文楽茶碗
小森忍の山茶窯で、陶磁デザイナーとしてキャリアを本格的にスタートした日根野は、その後小森とともに勤務した商工省陶磁器試験所で、幅広く国内外の工芸思想を学ぶ。戦後は陶産地でデザイン指導のかたわら、ライフワークとして楽茶碗を多数手がけた

▲滋賀県立信楽窯業試験場 熊倉順吉デザイン 干支 酉・戌・亥・子・丑・辰
試験場では1960年代より、40年余りにわたり干支置物の試作研究をしてきた。熊倉は嘱託として、大物づくりの技術を生かしたガーデンファニチャーや、干支置物のデザインを手がけている。地元の滋賀タイルでは、干支をテーマに陶板のデザインも試みた

Section Ⅱ
出会いと発見のなかに-新たな創作への揺さぶり

セクションⅡでは、昭和の古典復興に大きな役割を果たした北大路魯山人・荒川豊藏・小山冨士夫、そして前衛陶芸に新境地を拓いた走泥社の八木一夫と鈴木治が並ぶ。なかなかほかにはない組み合わせであるが、その意図と狙いはセクションタイトルに示されている。

鈎氏はこの点について、「北大路・荒川・小山は信楽の陶土や技術との出会いを契機に、独自の手法や表現を見出してゆきました。また、窯任せに焼いた薪窯焼成の作品に批判的であった八木と鈴木は、それぞれ生涯でただ一度だけ、この地で焼締(薪窯)に取り組んでいます。その動機について鈴木は、『穴窯に託したその不安と期待の入り交じった状況が、今の私の仕事に大きな揺さぶりをかけて、さらに次の仕事へのはずみをつけてくれまいか』と期待してはじめたのだと、京都新聞の連載に記しています。八木も鈴木と同じような視点で、信楽の象徴ともいえる焼締(薪窯)をとらえていたのではないでしょうか。」という。

▲《瀬戸黒金彩木葉文茶碗》左と《志野山の絵茶碗》右を前に解説する鈎氏。桃山陶の精神を追求してその復興に大きな役割を果たした荒川。信楽の関係は昭和5、6年頃のことで、北大路と一緒に陶土(白土)を求めて、髙橋楽斎を訪れたのが最初である

作家の活動地や遺族を訪ね調査してゆくなかで、荒川の作陶について新たな疑問に遭遇したという。それについて鈎氏は、「生涯美濃の土にこだわり続けていたはずの荒川が、戦前から信楽の陶土に関心を持ち、平野敏三や髙橋楽斎に書簡や口頭で、何度もあの土を送ってほしいと依頼しているのです。これは現段階での、あくまで私の勝手な想像に過ぎないのですが、化粧土のように志野に用いていたのではないかと、考えたりもしています」と話す。

▲「器は料理の着物」の言葉が示すように、北大路の作品制作は非常に合理的である。好みの形をした信楽や備前の壺から石膏型をつくり、時にはその型を使用して成形した。信楽の黄瀬土はお気に入りの陶土で、織部以外に志野や黄瀬戸などにも用いている

Section Ⅲ
産業とアート-作家を喚起する技術

最後のセクションでは、岡本太郎とロバート・ラウシェンバーグや横尾忠則が、地元の製陶メーカーの技術に興味を持ち、そのサポートを得て共同で制作した作品などが紹介されていた。鈎氏は「信楽ではそれぞれの時代に即した〈やきもの〉づくりをしてきましたが、そのプロセスで研究開発された技術は、彼らの創作の意欲を喚起する大きな力になりました。製陶メーカーにしても、技術を世間に広めてゆくこと(営業)は非常に重要です。ここで紹介する作品は、そうした双方の利害というか、想いがつくり出したもの」だという。

まず、最初に関心を示したのは旧信楽町の名誉町民である、あの岡本太郎である。「岡本は信楽と出会う以前から、すでに旧東京都庁のレリーフ制作などで、他産地のメーカーと仕事をした経験がありましたが、釉薬で思うような色(赤)が表現できないという課題を抱えていました。丁度その頃に、近江化学陶器の技術に出会います。東京オリンピック開催に備えて建設された国立代々木競技場を最初に、大阪で開催された日本万国博覧会の太陽の塔の黒い太陽など、数多くのレリーフ作品の制作を、晩年までこの信楽の地で手がけた」という。

そして「1980年代『芸術』に代えて『アート』という言葉が世間で広く認知されはじめた頃から、横尾やラウシェンバーグそして日比野克彦など、多数のアーティストたちが大塚オーミ陶業や陶光菴などの地元製陶メーカーで制作するようになりました」と鈎氏は話す。信楽窯業試験場や製陶メーカーを中心にはじまった、近代以降のさまざまな作家や芸術家との交流。その伝統は今、陶芸の森にアーティスト・イン・レジデンスというかたちで継承されている。1992年の開設以来、海外と日本(信楽)をつなぐ一大拠点として、これまで52ヶ国、約1,200人も作家や芸術家を受け入れ、新時代のやきもの文化創造の核となっている。

▲横尾忠則《EDO PERIOD 1603-1868》東京・その形と心(Tokyo:From and Spirit)
大塚オーミ陶業で開発された写真製版技術とペイントを組み合わせた7点の大型陶板からなる、東京を巡る時代の象徴的事物をダイジェストのようにコラージュした作品。この作品では「大江戸八百八町」に例えられる殷賑を極めた江戸のイメージに、写真のリアルな実像と大胆な絵付けの筆づかいが交錯して、鮮烈なインパクトをもたらしている

▲ロバート・ラウシェンバーグ《ダート・シュライン西》左 、《ゲート 西》右
「ラウシェンバーグ海外文化交流」プロジェクト、略称ロッキープロジェクト立ち上げの際に、大塚オーミ陶業で制作した作品。平面(陶板)に立体(鎖・重石・梯子)を組み合わせたその手法は、彼の「コンバイン」絵画のイメージを彷彿させる

▲岡本太郎《太陽の塔ミニチュア》
日本万国博覧会の開催に際して、近江化学陶器が制作した記念グッズ。日本の高度経済成長を強く印象づけたこの国家事業で、岡本の「太陽の塔」は、彼と信楽の関係のなかで最も大きな出来事であり、「黒い太陽」は信楽の技術を広く国内外に知らしめた

信楽に限らず六古窯に挙げられている産地は、途方もない時間の流れのなかで、それぞれの時代で人々の暮らしのニーズに応えてきた。幾多の困難な課題に直面しながら、時には外部からの人や技術を受け入れ、それを乗り越えてきた。いつの時代も、産地が育む新しい技術やものづくりの思想は、つくり手やアーティスト、またデザイナーと連携して新しい創造性を育み続けてきた。今回の特別展の鑑賞ガイドツアーでは、信楽という産地の多様性とその広がり、そして長年にわたり受け継がれてきた、伝統の懐の深さを感じることができた。

 

【展覧会 概要】
特別展「信楽に魅せられた美の巨匠たち」
会期:2018年10月6日(土)-12月20日(木)
会場:滋賀県立陶芸の森 陶芸館
出品作家:富本憲吉、日根野作三、熊倉順吉、河井寛次郎、濱田庄司、北大路魯山人、荒川
豊藏、小山冨士夫、八木一夫、鈴木治、岡本太郎、ロバート・ラウシェンバーグ、横尾忠則
https://www.sccp.jp/exhibitions/10594/

※第2部やきものや産地について語らうトーク「信楽と伊賀」レポート 前編へとつづく