備前 びぜん BIZEN OKAYAMA PREFECTURE

面積:258.14km²
総人口:35,213人 ※2018(平成30)年1月現在
気候:平均気温 14.6℃、
降水量 1,469mm ※2015(平成27)年
名産:窯業、備前カレー、イチジク、焼アナゴ、
マスカット、カキオコ(牡蠣のお好み焼き)、牡蠣
やきもの事業所数:68、就業人数:2,090人 ※2014(平成26)年
1951(昭和26)年に伊部町と片上町が合併し、備前町となったのが由来。
近代以降は三石、片上地区が全国でも
有数の耐火煉瓦の生産地だった。
公立としては世界最古の学校、閑谷学校が現存し、
楷の木のシーズンには多くの観光客で賑わう。 公式映像を見る

岡山県備前市

豊かな山々に育まれた豊かな産地

岡山県の南東部に位置する備前市は、瀬戸内海に面した温暖な気候を有し、岡山県三大河川のひとつである吉井川と、山口から畿内へ至る山陽道が交差する、物流の点でも優れた地域。この土地で生まれた備前焼は、平安時代末に熊山の麓で碗や皿、瓦などを生産しはじめたことが起源とされています。また、備前市の西部、流紋岩でできた不老山、医王山、榧原山に挟まれる伊部地区で、山々から流出した山土の一部が堆積した「干寄(ひよせ)」と呼ばれる良質な土が産出されることも、やきものが生まれた背景のひとつでしょう。初期の備前焼は熊山連邦の山中で焼かれていましたが、備前焼の人気にともない窯の大型化や運搬の利便性をとって里へ降り築窯。安土桃山時代には、備前焼の陶工たちによって指導されたとみられるやきものが、加賀、豊岡、丹波篠山、舞鶴、柳井でつくられており、その後に備前焼のかたちを模した製品が出回るようになります。このことから、当時すでに備前焼としてのブランドが確立されていたことがわかります。また江戸時代に入ると、岡山藩主・池田光政によって燃料や材料が下げ渡され、名工が「御細工人」に任じられるなど、藩の中でも備前焼の発展に力を入れていました。1831年、備前ではじめての連房式登り窯が開窯され、その後も改築を繰り返しながら1940-1941年頃まで使用されていたと言われています。

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焼き物の特徴

絵付けや施釉をせず、土の質や成分が焼成した際の景色に良く表れていることが特徴。焼成時、1,200度以上の高温で約2週間かけて焼締めるため、ほかのやきものと比べても強度が高く、また表面に微細な凹凸や気泡があり、酒がまろやかで美味しくなるなどと言われてきました。使われる陶土は、備前市伊部地区から取れる貴重な土「干寄」。粘り気が強く、鉄分を多く含み、耐火性が低いなどの特徴があり、瀬戸内市長船の黒土と混ぜて使用されます。現在も、昔ながらの登窯と松割木の燃料を用い、1点ずつ成形していくため、焼き味の景色は1点1点異なり、胡麻、棧切り、緋襷、牡丹餅などの変化に富んでいます。

千年続く理由①

やきものに適した原料や燃料が周辺にあったため

備前市は、市域総面積の2/3が山地です。また、その地質は流紋岩や石英斑岩などで構成されています。流紋岩は、花崗岩地域に比べて樹木が再生しやすく、燃料になるアカマツ林が広く発達するという特徴があります。また、この流紋岩から生成される山土(粘土)や平野部に堆積した田土が備前焼の原料となり、独特の味わいを器表に描き出します。この豊かな山林資源と原料の粘土が、中世以降連綿と備前焼を支えてきたと言えるのではないでしょうか。

千年続く理由②

水運に恵まれた土地だったため

完成した大型のやきものを多量に運び出すためには、立地が恵まれていることも条件のひとつになります。備前焼の場合、中世の前半は、岡山県の三大河川のひとつ吉井川を利用して搬出。中世後半から近世には、片上湾から瀬戸内海へ出るルートを使って運び出していました。江戸時代を代表する窯「伊部南大窯跡」は片上湾からわずか1.5㎞のところにあり、眼前には不老川が流れる好立地にあります。消費地に届けるために必要な交通手段に恵まれたことも、長らく続いている理由です。

千年続く理由③

機能や用途が時代にマッチしていたため

備前焼には、世の中のニーズに合わせてやきものをつくってきたという歴史があります。例えば、中世後半の大甕やすり鉢。それぞれ堅牢な容器として液体を貯蔵する、擂鉢が粉食をするのに適するなど、用具として抜群の機能性を持っていました。また近世以降では、宮獅子、布袋・恵比須などの置物、近代以降は金重陶陽によって復興された桃山陶などは調度品として活躍。さらにバブル期は威信財(持つことに価値を見出す)として愛されています。しかし、常に隆盛ではなく、時代によって浮沈はありました。

備前焼の歴史

西日本最大規模の須恵器生産地、邑久古窯跡群の終焉に呼応するかのように伊部の地で生産を開始したのが備前焼。中世では堅牢な擂鉢が西日本に流通、秀吉が天下人になった頃には釉薬を使わない枯淡の味わいが好まれ、多くの茶事で用いられました。現在でも釉薬を使わないやきものとして多くの愛好者がいます。

平安時代末期

備前焼のはじまり

平安時代、伊部の平野部の山裾にて、椀、皿、瓦などを焼きはじめたのが備前焼の起源だと言われています。窯が築かれた当初は、須恵器の影響が色濃く残っており、白や灰色のやきものが多く焼かれていました。

発掘調査中の窯跡

鎌倉時代末期

備前焼が徐々に西日本へと流通しはじめる

鎌倉時代の中期には備前焼として成立し、徐々に赤褐色のやきものもつくられるようになっていきます。また、この時期から量産のために窯が大型化。十数mだった窯の規模が、20m、30mと拡張していきました。発掘調査からは、窯を大きくするため何度も窯床などを調整した、その痕を見ることができます。なかには標高400mを超える場所へ窯が築かれたこともありました。

長船町福岡で開かれていた市の跡

室町時代

備前焼が大量生産される

山麓の3ヶ所に窯場が集約しはじめ、そこですり鉢などを大量に生産していたことがわかっています。発掘調査が行われた不老山東口窯跡から出土した陶片の数は、ひとつの窯で1,700箱にも及びました。なかには全長40m×幅3.2~4mほどの窯がつくられるようになり、この規模から天井を支える柱(土柱)が確認されています。

膨大なすり鉢片が出土した不老山東口窯跡

室町時代末期

南・北・西の三大窯が成立

室町時代は最も広範に備前焼が使われていた時期でした。また、山中にあった窯が、次第に平野へと降りていき、少数の大型の窯を共有するようになり、三大窯が築かれました。西日本各地の遺跡、特に山城では、必ずと言っていいほど備前焼の大甕が出土していることから、生産された多くのやきものが広範囲に流通していたことがわかります。また、「落としても割れない」と言われるほど硬質の備前焼は、生活用品としてつくられた簡素なやきものでしたが、その簡素さが茶の湯の精神に通じるとして村田珠光によって見出され、茶道具として人気を博しました。しかし、白磁や施釉陶器が出回ると、人気は徐々に衰退していきます。

西大窯上空から見た伊部南大窯の遠景

安土・桃山時代

茶の湯に重用される備前焼

多くの茶会記に備前焼が登場するようになります。この時期には、擂鉢以外にも、御誂え(注文商品)が多くつくられ、徳利、水指、盤、鉢など、多種類の製品が焼かれていました。

徳利
桃山時代/所蔵:備前市埋蔵文化財管理センター


江戸時代初期

御細工人制度の設立

1636年、池田光政(岡山藩主)が、燃料・原料を無料で払い下げるとともに、名工を「御細工人」に任じて扶持を付与。幕府の庇護のもと、小さい窯は統合され、大きな共同窯が築かれました。共同窯は木村・森・頓宮・寺見・大饗・金重の窯元六姓と呼ばれる6つの家によって経営、管理。共同窯は大窯とも呼ばれるため、江戸時代を大窯時代と呼ぶこともあります。

江戸時代の窯の物原、巨大な窯で膨大な製品を焼いていた

江戸時代末期

連房式の窯で技術革新

1831(天保2)年には、備前ではじめて連房式登窯(融通窯)が3基導入されました。効率性を重視した窯で、3基のうち1基はリニューアルを繰り返しながら昭和15年、16年頃まで使用。この窯で生産されていた角徳利、人形徳利は、鞆(広島県福山市)の保命酒の容器に用いられていたようです。また、江戸時代の築窯当時の構造が一部現存する連房式の窯「天保窯」は、備前市指定建造物として現在に残っています。

効率を上げるために導入された連房式の融通窯跡

現代