越前 えちぜん ECHIZEN FUKUI PREFECTURE

面積:153.15km²
総人口:22,018人 ※2018(平成30)年1月現在
気候:平均気温 15.5℃、年間降水量 2,263mm ※2017(平成29)年
名産:窯業、越前水仙、たけのこ、しいたけ、ピーマン、きゅうり、
米、越前がに、越前かれい、へしこ、豆腐、マリンバほか
やきもの事業所数:39、就業人数:54人 ※2018(平成30)年1月
(全盛期[1993年1月]の事業所数:45、就業人数:65人)
古来より越前がに、越前雲丹の主産地で、その美味風味は全国にうたわれ、
越前岬は日本海航路の道しるべとして有名であったため、希望に満ち、
将来の発展を期して越前町と選定した。(『越前町史』より)
また、2005(平成17)年に4市町(朝日町、宮崎村、越前町、織田町)が
合併した際に旧越前町の町名を踏襲した。
織田信長(織田一族)発祥の地。泰澄大師ゆかりの地。 公式映像を見る

福井県越前町

北陸最大の窯業産地

越前町は、福井県の嶺北地方西部に位置するまち。日本海に面し、鯖江市、南越前町、福井市と隣接しています。大半が丹生山地に属し、沿岸部から北部にかけて500m級の山々が連なる地域です。越前のやきものの起源は約1,300年前にまでさかのぼりますが、産地としてのはじまりは約850年前の平安時代末期。現在までに200基以上の窯跡が発見されており、当時は主に甕や壺、すり鉢、舟徳利、おはぐろ壺といった日常雑器を中心に生産していました。中世、越前海岸に近い立地で生産された商品は、北前船によって北は北海道、南は島根県まで広まり、北陸最大の窯業産地として発展。しかし、明治時代に入り、水道の普及や磁器製品が広まるにつれて需要が落ち込み、衰退した時期も。その後、地元の古窯址研究者・水野九右衛門と、日本の陶磁器研究者・小山冨士夫が行った発掘調査と研究により復興を遂げ、1948(昭和23)年、六古窯のひとつとして数えられ、全国に知られるやきものとなりました。1986(昭和61)年には国から伝統工芸品として指定を受け、古くからある技術を継承するとともに、多くの陶工が新しい越前焼の創作に取り組んでいます。

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焼き物の特徴

素朴で頑丈なつくり、温かみのある土と灰釉の味わいを秘めた民藝的な美しさが特徴。越前の土は鉄分を含み、耐火度が高く、焼き締まりが良い、粒度が細かく強い粘りを持つなどの豊かな特性があり、繊細な成形が可能です。また、石英などのガラス成分を多く含むため、焼き固めた際に土の粒子間にガラス質が流れ込んで隙間を埋め、硬く緻密に仕上がります。土の特性が大甕や壺の製作に適していたことから、鎌倉時代には、底土の周りを回りながら粘土紐を重ねていく「陶芸越前大がめ捻じたて成形技法」が編み出され、現代にもその技術が継承されています。

千年続く理由①

優れた原材料に恵まれているため

開窯当初の遺跡が分布する越前町小曽原周辺からは、白色に近い良質の陶土が採掘されています。この粘土は耐火度1,610〜1,650度のコシの強いもので、珪酸が多く酸化アルミニウムが少ないのが特徴。次いで、鎌倉時代以降は、天王川西部丘陵から採掘される粘土が原材料として使用されるようになりました。これはより一層コシが強く耐火度が高いとされ、大甕の製造に適しています。江戸時代には、陶土を田土に変えていることが古文書で確認されており、周辺の豊かな土壌から出た土を利用し、時代によって材料を変えていったことがわかります。

白色 青ネバ粘土

原土(黄土、青ネバ)

千年続く理由②

特定の器種生産に特化したため

平安時代末期に越前窯が開窯されて以来、室町時代後期まで、主要な生産機種は壺・甕・すり鉢などでした。これらは日常雑器と呼ばれます。15世紀まで日本海沿岸で盛んであった珠洲焼(すずやき)を見ると、日常雑器のほかにも経筒や蔵骨器を生産しており、時代のニーズに合わせて多様な器種を生産しています。しかし、16世紀に大甕の需要が高まると、珠洲焼は耐久性の問題から衰退、閉窯しました。越前窯では、特定の器種を生産することで、より高い質の商品を生み出し、ブランド力を獲得し得たと言えます。

越前焼大甕

越前焼大甕
所蔵:福井県陶芸館

千年続く理由③

日本を代表する港町を抱えるため

生産された越前焼は、河川及び陸上航路で海沿いの集落へと運ばれました。そこから小舟で敦賀・三国といった大規模な港に運ばれ、大型船で日本海各地へ向かいます。古来より、敦賀・三国は日本海を代表する港町として知られており、特に敦賀は中国大陸から人・もの・技術・思想を受け入れる拠点となっていました。江戸時代に整備された「北前船」が有名ですが、それ以前から越前の港に物資が集積、運ばれていくシステムが成立しており、これを背景に越前焼は商圏を拡大したと考えられます。

敦賀港全景『越山若水』

敦賀港全景「越山若水」
画像提供:敦賀市立博物館

越前焼の歴史

古代より陶器生産の中心地であった越前では、平安時代末期に越前焼の生産が愛知県・常滑窯の影響のもと開始。鎌倉時代~室町時代と生産量を上げた越前窯では、戦国時代に技術革新をはたし、陶器の大量生産を可能に。その製品は日本海沿岸一帯へと流通し、越前窯は日本列島を代表する産地のひとつとなりました。

奈良時代

須恵器(すえき)の一大産地として

奈良時代には、越前町でも須恵器生産が本格的にはじまり、平安時代前期(10世紀)まで継続されます。これまでに約60基の窯跡が確認されており、丹生窯跡群で生産された須恵器は越前国中に供給されていました。須恵器と越前焼との直接的な技術系譜はありませんが、古代の手工業生産の実態を知るうえで重要な遺跡です。越前町小曽原に位置する神明ヶ谷須恵器窯跡(福井県指定文化財)は10世紀の須恵器窯跡で、発掘調査後に窯体を保存し、見学することができます。

小粕窯跡
『織田町歴史資料館 常設展示図録』p.22
画像提供:越前町織田文化歴史館

平安時代末期

越前焼の誕生

12世紀後葉、常滑窯から技術を導入して越前焼生産が開始されました。初期の越前窯は越前町小曽原周辺で操業され、常滑焼とよく似た形状の陶器がつくられています。越前では中世から近代にかけての200基を超える窯跡が発見されており、越前町織田・宮崎地区を中心とする窯業生産の一大産地でした。そのなかでも、上長佐3号窯跡(越前町指定文化財)は越前窯のルーツを東海諸窯に求める契機となった、極めて重要な遺跡として知られています。

越前焼三筋壺
画像提供:越前町織田文化歴史館

戦国時代

越前焼のコンビナート展開

戦国期の城下町建設にともない、越前窯では大量生産が志向されるようになりました。これに対応すべく、窯体は巨大化し、窯壁や分焔柱(ぶんえんちゅう)を補強するなど、さまざまな技術革新が図られました。生産体制も一新され、前代までの小規模な手工業生産から脱皮します。この時代、越前焼は日本海沿岸一帯へと供給されました。岳の谷窯跡群(越前町指定文化財)は16世紀後葉~17世紀初頭を中心とする窯跡です。全長25メートルにもなる巨大な窯体は、生産が大規模化したことをうかがわせます。

「劔大明神領分平等村田畠居屋敷指出状」
画像提供:越前町織田文化歴史館

江戸時代

越前赤瓦の誕生

17世紀中葉に赤瓦の生産が開始されました。鉄分を含む土壌を水に溶いた釉薬を用いることで、瓦は赤黒く発色し、「越前赤瓦」と呼ばれています。越前町平等で焼かれた赤瓦と同一の製品が、金沢城や福井城の発掘調査で出土。瓦生産の技術は東北地方にまで及び、北海道函館市箱館奉行所の屋根には約35,000枚の越前赤瓦が葺かれています。

越前赤瓦
画像提供:越前町織田文化歴史館

近代

越前焼の復興を目指して

産地間競争などを原因に越前焼窯元の数が激減していくなか、新しい越前焼を目指した窯元が現れました。地元の原材料を使用した磁器、絵付けを施した高級陶器生産への挑戦、技術を後世へ伝えていくための徒弟養成所の設置など、さまざまな試みを実行。「白いやきもの」の生産を目指した小曽原焼窯元の山内伊右衛門は、色絵陶器を主生産とする合資会社「日渉園」の出資者のひとりであり、技術面においても中心人物でした。また、山内と同じく「白いやきもの」の生産を目指した吉田長兵衛は、白磁を生産した「葵園」を創業しました。

平等陶磁器工場
『織田町歴史資料館 常設展示図録』p.70
画像提供:越前町織田文化歴史館

現代

「越前焼」の命名

長い間、越前で生産された陶器に統一名称はなく、「小曽原焼」「熊谷焼」「おた焼」「たいら焼」など、集落名を冠した名称で呼ばれていました。この状況を鑑みた、古窯址研究者の水野九右衛門、陶磁器研究者の小山冨士夫、越前焼窯元の北野七左衛門が「越前焼」と命名したと伝わっています。1965(昭和40)年、福井県内で生産される陶磁器の総称を「越前焼」と統一することにより、越前焼の名は全国に定着していきました。

水野九右衛門
画像提供:越前古窯博物館