瀬戸 せと SETO AICHI PREFECTURE

面積:111.40km²
総人口:130,047人 ※ 2018(平成30)年3月現在
気候:平均気温 16.4℃、
降水量 1,667.5mm ※2016(平成28)年
名産:窯業、赤津焼(伝統的工芸品)、瀬戸染付焼(伝統的工芸品)、セトノベルティ、
碍子、ファインセラミックス、ガラス工芸品、瀬戸焼そば、ごも飯、瀬戸の豚など
やきもの事業所数:189、就業人数:2,654人 ※2013(平成25)年
(全盛期[1978年]の事業所数:1,666、就業人数:14,693人)
陸地の通路が狭く、谷と谷が向かい合わせの土地「背戸」が由来と言われ、
「陶所」=「すえと」が転じて「瀬戸」になったという俗説もあり。
周囲を標高100~300mの小高い山々に囲まれ、気候も温暖。 公式映像を見る

愛知県瀬戸市

“せともの”を担う、世界屈指の産地

約1,000年前から一度も途切れずやきものの生産を続けてきた、世界的にも稀有な産地。日本で陶器一般を指す「せともの」という言葉は、長い歴史のなかで、やきものづくりを牽引してきた瀬戸焼からきています。瀬戸焼の起源は、5世紀後半に現在の名古屋市・東山丘陵周辺で、須恵器の生産を行っていた猿投窯(さなげよう)。丘陵地帯には瀬戸層群と呼ばれる地層があり、やきものの原料となる良質の木節粘土・蛙目粘土や、ガラスの原料となる珪砂を採取することができました。山間地帯には、松などの樹林が広がっており、瀬戸の恵まれた自然が窯業発展の大きな支えとなってきたのです。12世紀終わりには古瀬戸の生産がはじまり、当時国内唯一の施釉陶器生産地として、四耳壺、瓶子、水注がつくられました。19世紀に入ると磁器の生産もはじまり、アメリカへの輸出や万国博覧会への出品など、海外との交流が盛んに。また、それによって染付けの顔料となる酸化コバルトや石膏型による成形法など西洋の技術が取り入れられました。現在も時代の変化とともに移り変わっていく生活様式に対応して、食器やノベルティ、陶歯、自動車の部品など、多種多様な製品を生み出し続けています。

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焼き物の特徴

中国の青磁や白磁を彷彿とさせる、白く美しい素地が特徴。陶土採掘場から採集される木節粘土と蛙目粘土は、耐火性が高く可塑性に富み、粘土中には鉄分がほぼ含まれないことから、白いやきものをつくり出すことが可能です。それを生かしたさまざまな施釉製品が生み出され、瀬戸焼の特徴のひとつとなりました。白い素地に青く発色するコバルト顔料(呉須)で絵付を施し、その上に透明な釉薬をかけて焼成する瀬戸染付の技法が発展。また近年では技術を応用し、陶器の性質を人工的に高めた製品、ファインセラミックの製造にも取り組んでいます。

千年続く理由①

良質で豊富な陶土に恵まれたため

瀬戸市の地盤を形成する地層は、今から1,000万年以上前から約200万年前にかけて堆積してできた「瀬戸層群」という砂礫と陶土によって構成されています。瀬戸層群のなかには、やきものづくりに欠かせない「木節(きぶし)」「蛙目(がえろめ)」という良質な粘土と、ガラスの原料となる「珪砂」が豊富に含まれる瀬戸陶土層があります。この豊かな土壌が、瀬戸の多種多様なやきものを生み出す源となっています。

珪砂採掘場

陶土・珪砂採掘場(瀬戸市上陣屋町)
※本写真は2004年撮影のもので、現状は変化しています。なお、一般の方は採掘場内に入り、見学することはできません。

千年続く理由②

優秀な粘土を多く産したため

瀬戸層群から採掘される粘土は、耐火性が高く、可塑に富む(柔らかく成形しやすい)という特性に加え、粘土中に鉄分がほとんど含まれていないことから、白いやきものをつくり出すことができました。そのため、白い素地にさまざまな絵を描き、色とりどりの釉薬を施すなどして、多様なやきものをつくることができたのです。この粘土がなければ瀬戸のやきものは成立しなかったといえます。

陶土

千年続く理由③

新しい技術や文化を柔軟に取り入れたため

時代とともに変化する人々の生活様式に合わせて、多様な製品を世に送りだしてきました。その過程で瀬戸焼が広く人々の生活のなかに浸透し、「せともの」という言葉が日本のやきものの代名詞となっていったのです。先人たちの努力や高い技術力などによって「瀬戸ではつくることができないものはない」といわれるほど、多様なやきものが生産されています。現在生産している品種は、和洋食器にとどまらず、ノベルティ、建築陶材、碍子、ファインセラミックスなど多岐に渡ります。このようなやきもの産地は世界のなかでも瀬戸だけといえるでしょう。

瀬戸焼

瀬戸焼の歴史

中世において唯一施釉陶器を生産していた瀬戸。瀬戸層群から採掘される良質な粘土から磁器の生産も可能に。人々の暮らしに密着したやきものづくりをするなかで、「せともの」いう言葉が日本のやきもの全般をさすまでになりました。

平安時代末〜鎌倉時代初期

瀬戸窯の開始と灰釉陶器の生産

10世紀になると、猿投窯は知多半島、三河等の地域に窯場を拡散、北隣りの瀬戸にも10世紀後半から灰釉陶器を生産した窯が登場します。この時期の灰釉陶器は、近隣地域向けに生産されました。瀬戸でつくられた当時の灰釉陶器には、大小の椀をはじめ、さまざまな器種が見られるほか、緑釉陶器の素地も出土しており、その生産への関与がうかがわれます。しかし、11世紀中頃になると、量産化に伴う形の簡素化・粗雑化が進み、限られた器種を主体とする生産に移行します。

灰釉縄手付瓶
11世紀中期/広久手F窯出土

鎌倉時代〜室町時代

山茶碗の生産

猿投窯はじめ東海地方の窯業地は、11世紀終わり頃に施釉技法を一時的に放棄します。この時、生産された無釉の碗は「山茶碗」と呼ばれ、これは近隣地域向けの日常食器として流通していました。瀬戸窯では12世紀後半に施釉陶器が登場した後も併行して生産され、鎌倉・室町時代の窯業の基盤をなしていきます。山茶碗には、素地のきめが細かく主に東濃地域で生産された東濃型(均質手)と、素地のきめが粗く主に尾張地域で生産された尾張型(荒肌手)などがあります。

入子
13世紀末期~14世紀初期/針原2号窯出土

古瀬戸の生産開始

鎌倉時代初期からは山茶碗と併せて、四耳壺・瓶子・水注を中心とした「古瀬戸」と呼ばれる新たな施釉陶器の生産が開始されます。この時期、鎌倉や東海地方の寺院からの瓦・仏具・蔵骨器等の需要が増えたため、古代の猿投窯から分派・成長した中世の瀬戸窯のほか、猿投窯、知多窯、渥美窯、湖西窯等では、需要に応じそれぞれ特色ある製品を生産しています。なかでも瀬戸窯は、国内唯一の施釉陶器生産地として歩みはじめ、大型の壺や瓶類、仏花瓶・香炉といった宗教関係の器種を生産しました。

灰釉菊印花文四耳壺
13世紀末期~14世紀初期

室町時代

古瀬戸の隆盛

鎌倉時代の後期になると、灰釉に加え鉄釉を施すものが登場し、さらに印花文(スタンプ)・貼花文(貼りつけ)・画花文(ヘラ描き)などにより文様が施された、華やかなやきものが多く生産されました。室町時代に入ると、碗・小皿類をはじめとする器種が多様になり、供膳具・調理具などの「使う」製品が生産の中心となります。また、明の海禁政策により、一時期中国陶磁器の輸入量が減少したことを受けて、日常生活用具の生産を進めていくことで受容層を広げ、全国各地の都市や港湾、領主の居館等に広く流通するようになります。

鉄釉仏花瓶
14世紀前期/伝 百目窯出土

江戸時代前期

さまざまな焼き物の生産

大窯以来の伝統的器種は減少し、新たに御室茶碗や腰錆茶碗などが見られるようになります。そして、各村の生産器種分業化がより明確になり、瀬戸村では供膳具・灯火具、赤津村・下品野村ではすり鉢・片口ほかの調理具・貯蔵具、下半田川村では香炉・仏餉具ほかの神仏具がそれぞれ生産されています。また、こうした日用品を量産する一方で、名工たちによる一品物の制作が盛んに。各村の名工が幕末期にかけて活躍し、彼らの手による名品が数多く伝世しています。江戸時代中頃には、陶器生産の伸び悩みによる新機種の開発が進み、住用具の火鉢や瓶掛、灯火具など、さまざまな生活用具が生産されました。

緑釉瓢形花入
18世紀後期~19世紀前期/加藤春丹

近代

磁器生産の開始、世界にはばたいた瀬戸焼

江戸時代後期から本格的な磁器生産が開始されます。それまで主流であった陶器は本業焼、新たに導入された磁器は染付焼あるいは新製焼と呼ばれます。陶業は長男戸主に限られていましたが、新製焼は次男、三男でも開業できたため転業が相次ぎ、新製焼はすぐに陶器生産を凌ぐようになります。瀬戸の磁器の中心は呉須を顔料とした染付で、横井金谷ら南画系などの本画師・文人の指導による華麗な瀬戸染付技法が文化・文政年間に確立し、加藤民吉・吉右衛門兄弟をはじめ、加藤忠治、川本治兵衛(二代・三代)、川本半助(四代)などの名工を輩出しました。

染付鳳凰文炉縁
19世紀中期

現代

陶都瀬戸の確立

明治時代中期から後期にかけて、動力機械の導入や電気の使用開始などを受けて、後の瀬戸窯業の基盤となっていくインフラが確立されていきます。そしてやきものづくりは、手ロクロから機械ロクロ、手描きから転写、薪の窯から石炭・重油の窯へと変化していきます。大量生産を行うための構図が確立されていき、飲食器や装飾具に加えて、衛生陶器、碍子、理化学用品、建築用陶器、ノベルティなどが生産されていくようになります。また陶器学校や窯業試験所の開設、鉄道の開業などによる輸送体制の拡充など、「陶都瀬戸」が確立されていきます。