信楽 しがらき SHIGARAKI SHIGA PREFECTURE

面積:481.62km²
総人口:91,306人 ※2017(平成29)年2月現在
気候:平均気温 12.3℃、
年間降水量 1,723mm ※2017(平成29)年
名産:窯業、薬、朝宮茶、土山茶ほか
やきもの事業所数:79、就業人数:486人 ※2016(平成28)年
(全盛期[1992年12月]の事業所数:135、就業人数:1303人)
古く甲賀は、「鹿深」「甲可」と書き、
いずれも「カフカ」と呼称。
信楽は、『正倉院文書』に「信楽」と表記されている。
甲賀流忍者発祥の地。 公式映像を見る

滋賀県甲賀市

琵琶湖の恵みから生まれた産地

信楽焼の窯元を有する甲賀市は、滋賀県南部に位置し、大阪、名古屋から100km圏内にある交通の要衝。水源涵養や水質保全に重要な、琵琶湖の源流を保持しています。そのなかにある信楽では、13世紀頃、常滑の影響を受けて開窯しましたが、産地としての土壌は約6,500万年前、信楽陶土の母岩となる花崗岩が山地に広がりました。そして、約400万年前に、現在の伊賀付近には、かつて琵琶湖の原型となる古代湖があり、約40万年前に現在の位置まで北上したと言われています。湖底には土砂や動植物の残骸などが堆積した古琵琶湖層があり、そこへ花崗岩や流紋岩の風化物が流れ込んで、やきものに適した粘土質が出来上がりました。また、信楽は四方を山に囲まれた土地ですが、山越えや峠越えを経て、近辺の宇治や大阪、伊賀へとやきものを運ぶことができました。特に16世紀より、当時列島最大級の消費都市・京都に最も近い利点を生かし、やきものの供給を行うことで、産地として興盛していったことも大きな特徴です。戦国時代には茶の湯の道具として用いられたほか、近代以降は茶器に限らずタイルや植木鉢、たぬきの置物など、あらゆるやきものを製作。「形になるものは何でもつくる」という伝統と創造が共存するたくましい産地で、いままで消費者のニーズに合わせて多様な製品を生産してきました。

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焼き物の特徴

釉薬を施さずに焼き締めるため、長石と石英の砂粒が混ざったざっくりとした肌合いや、焼成の過程で素地が変化しつくり出される印象深い景色が特徴。古琵琶湖層から採取される土は耐火性に優れ、タイルから大甕まで対応できる、汎用性の高い土と言えます。1970年代には、古信楽の技法の再現に取り組んだ、三代高橋楽斎氏と四代上田直方氏の影響のもと、伝統技法を受け継ぐ多くの作家が活躍するようになり、1980年代後半頃からは、現代美術のジャンルとしてやきものを素材に自由な造形作品を制作する作家が活躍しています。

千年続く理由①

形になるものは何でもつくるたくましい産地のため

甕壺をはじめとする大物、土瓶・神仏具・煎茶器などの小物、そしてたぬきや干支の置物といった型物など、多様な製品が生産されています。戦国時代、信楽茶陶は茶の湯の世界で一定の評価を得ていました。中世以来、現在に至るまで、消費者のニーズに合わせ、庶民の日常生活や工業製品に関わる品物を生産。現在は、受け継がれた技術をベースにタイルなどの建材から、日常生活で使う風呂桶のほか、茶陶や芸術作品をも生み出されています。芸術家・岡本太郎が《太陽の塔》を製作する際、「黒い太陽」レリーフを信楽でつくったことは、よく知られています。

信楽伝統産業会館常設展

千年続く理由②

大消費地に近接し、広域へ大量に流通できたため

信楽は大坂、京都という大消費地の近くに立地しています。開窯当初の信楽焼の流通範囲は、近江南部・伊賀・大和北部・南山城と広くはありませんでしたが、15世紀後半から16世紀までに、京都を中心として流通を拡大させました。信楽焼が茶の湯の道具として用いられるようになると、とりわけ奈良・堺・京都などの茶人が愛好。江戸時代には徳川将軍家への献上茶を詰める腰白茶壺をはじめ、京焼風の小物陶器生産がはじまり、特に江戸城下へ大量にやきものを供給していました。

腰白茶壺

千年続く理由③

茶の産地でもあるため

信楽はやきものだけでなく、茶の産地でもあります。15世紀初頭には、信楽の壺が茶葉詰めの容器に用いられていました。16世紀には、唐物や南蛮物の茶壺と並び評されるほど、高い評価を受けており、同世紀後半の天正期には、肩衝茶入、平水指、壺成水指、筒花入など新しい形状の茶陶が茶人たちの注文によって信楽で製作され、新たなる創造の時代がはじまります。江戸時代には、将軍に献上する茶を入れる御用茶壺の生産がはじまり、江戸時代後期になると茶の湯の流行を背景に、施釉陶器の茶道具が製作されました。信楽のやきものは茶の湯とともに発展してきたのです。

茶畑

信楽焼の歴史

鎌倉時代、他産地の技術が伝わりはじまった信楽におけるやきものの歴史。次第に信楽焼としての独自性が育まれていくなかで、上質な原料に支えられ焼締の製品が全国へ流通。また、戦国時代は茶陶、江戸時代は日用品と、用途を変えることで多くの人に愛されてきました。

鎌倉時代中期

信楽焼のはじまり

常滑焼の技術的な影響を受けて生産がはじまった信楽焼。開窯当初は、窯構造も常滑特有の「甕窯」と呼ばれる窯に類似しており、つくられるやきものも常滑焼と区別ができないほどよく似ていました。しかし、14世紀になると、信楽焼独自の作風も確立されていきます。この時期は農業の発展にともなって、需要が拡大していた甕・壺・鉢の3種類のやきものが主につくられていました。

甕・壷
14~16世紀/所蔵:信楽伝統産業会館

室町時代

窯変の魅力

常滑焼の影響が強かった信楽焼ですが、次第に信楽焼独自の風合いを備えるようになります。釉薬を施さず、高温で素地を焼き締める「焼締陶器」としてはじまった信楽焼は、長石と石英の砂粒を含む荒い素地と、赤褐色の地肌にガラス化した自然釉と焦げが混じり合って生み出される独特の景色がその魅力です。また、壺の肩部分に力強い線刻で施される「檜垣文」「縄目文」、そしてずんぐりとした形の小型壺で人がうずくまっているように見えることから名付けられた「蹲(うずくまる)」と特徴あるやきものが見受けられます。


14~16世紀/所蔵:信楽伝統産業会館

戦国時代

信楽茶陶の普及

信楽焼のやきものは、その簡素さが茶の湯の精神に通じると見なされ、次第に見立て茶器として日用雑器が茶に用いられはじめます。奈良で茶人として高い評価を得ていた村田珠光は、初心者が備前物や信楽物を所持することを戒めると語りましたが、その後、奈良・堺・京都の町人の間で急速に広まった茶会には、信楽茶陶が用いられるようになりました。備前焼と並んで最も早く茶道具として使われたと考えられています。また、織田信長の嫡男・信忠が信楽鬼桶水指を所有していたとされ、本能寺の変の折に焼失したという逸話も残っています。

水差・花入
年代不明/所蔵:信楽伝統産業会館

江戸時代

連房式登窯の導入と施釉陶器

江戸時代に入り、連房式登り窯が導入されると大規模生産が可能になりました。また、施釉陶器が全国的に流通するようになり、焼締での焼成を行う信楽でも施釉陶器がつくられはじめます。将軍家に献上する宇治茶を詰めるための腰白茶壺を生産するほか、一大ブランドとしての地位を築き上げていた京焼の需要を補うため、小物施釉陶器の生産を開始。高価な京焼に代わって、庶民のための日用品生産を担ったのが信楽焼でした。

碗類
18~19世紀/所蔵:信楽伝統産業会館

明治時代〜昭和初期

新製品の開発と近代化

明治維新を迎え、国家の近代化にともない、工業用品として糸取鍋や化学工業用の耐酸陶器など、新しい商品が次々と生み出されます。鉄道旅行が普及し、駅弁のお供であった汽車土瓶を、西日本を中心に全国各地へ供給。江戸時代後期から製造がはじまった火鉢は、他産地のものに比べて急熱急冷に強く品質が高いことが好評を得て、次第に生産額を伸ばしました。また、1897(明治30)年頃に谷井直方らによる中国陶磁の海鼠釉(なまこゆう)を範とした釉薬の製法の開発のほか、1920(大正9)年、石野里三らによって石膏型による機械ロクロ成形法が完成し、産地全体の品質も大きく向上しました。

硫酸壷
1940年頃/所蔵:滋賀県工業技術総合センター 信楽窯業技術試験場

大正時代〜昭和20年代まで

信楽たぬきの誕生

信楽焼の代名詞ともいえるたぬきの置物が誕生したのは昭和前期。昭和26年の昭和天皇の信楽行幸にて、主力製品である火鉢を積み上げてアーチをつくり、日の丸の旗を持たせた信楽たぬきを並べ、奉迎しました。それを見た昭和天皇は喜ばれ「おさなとき あつめしからに なつかしも しがらきやきのたぬきをみれば」と歌に詠まれました。この時の報道をきっかけに、信楽焼のたぬきが全国の注目の的に。また、たぬき文化研究家・石田豪澄が、伝承をベースとした「信楽狸八相縁起(しがらきたぬきはっそうえんぎ)」を考案。石田のすすめで信楽の陶器店が信楽狸八相縁起のしおりをつけて販売したところ、たぬきの置物が縁起物として好まれるようになりました。


昭和時代前期/所蔵:信楽伝統産業会館

〜現在

「産業」と「芸術」の調和と展開

昭和20年代に信楽の町は「火鉢景気」に沸き、昭和30年代に入ると観葉植物の流行に目をつけ、主製品を植木鉢に移行しました。昭和30年代中頃からはタイルをはじめとする建築用陶器の生産がはじまり、国会議事堂の屋根にも採用されました。陶器風呂や坪庭等、時代のニーズに応じたさまざまな製品が現在も生み出されています。また、産業製品にとどまらず芸術作品も生み出されています。1970年の日本万国博覧会(大阪万博)のために制作された芸術家・岡本太郎作《太陽の塔》の「黒い太陽」は、信楽の当時の技術を駆使して制作されたものです。

太陽の塔「黒い太陽」レプリカ
1970年/所蔵:信楽伝統産業会館/協力:公益財団法人岡本太郎記念現代芸術振興財団