平安時代
産声をあげる丹波焼
今田町の三本峠北窯の捨て場から、刻面画のある古丹波を中心に甕や壺が出土し、この頃が丹波焼の開窯時期とされています。
碗
平安時代/所蔵:丹波篠山市/平成12年 三本峠北窯跡発掘調査出土品
面積:377.59km²
総人口:42,093人 ※2018(平成30)年1月現在
気候:平均気温 14.3℃、
降水量 1,727.5mm ※2017(平成29)年
名産:窯業、丹波篠山黒豆、丹波篠山山の芋、丹波栗、丹波松茸、丹波茶、丹波木綿など
やきもの事業所数:60、就業人数:130人 ※2018(平成30)年
(全盛期[1846年]の事業所数:111、就業人数:不明)
1609年、徳川家康の命により
天下普請で篠山城が築かれたことが由来。
秋から冬にかけて丹波霧と言われる霧が農産物に好影響を与える。
民謡デカンショ節のふるさと。
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兵庫県丹波篠山市
京都・大阪に近接し、虚空蔵山と和田寺山に挟まれ、四斗谷川を有する山間に現在も続くやきものの里。主要な窯が並ぶ立杭地区は、地形に恵まれ、丹波特有の霧が早々に晴れ上がることから、やきものの乾燥には適した地でした。丹波焼の発祥は、平安時代末期から鎌倉時代初期にさかのぼります。当時は、山腹に溝を掘り込み、天井をつけた「穴窯(あながま)」を用いて、甕や壺、すり鉢など、庶民の求めに応じたやきものの生産が盛んに行われていました。
慶長末期に入ると、朝鮮式半地上の登り窯が導入され、短い焼成時間で、一度に多くの製品をつくるとこが可能に。新しい技法を手に入れた陶工たちは、同時期に取り入れられた蹴ロクロや、灰や鉄などの釉薬を用いて、生活に即したやきものの製造に力を入れます。
江戸末期、さらに新しい釉薬や漉土(こしつち)によって陶土の質が改善。釉薬を掛け合わせることによって生まれる多彩な模様や、さまざまな用途のやきものが生まれました。昭和20年代に入ると汽車茶瓶やブロックなど、新しい製品の製造をはじめる一方で、昭和40年代には窯業指導所や民藝運動家のはたらきかけによって、民芸品の生産高が急増していきました。現在も、丹波焼の伝統を生かし、暮らしに寄り添うやきものがつくられています。
ひとつの技法にとらわれず、時代の要請を敏感に察知し、さまざまな生活用器をつくり続けてきた丹波焼。常滑や越前窯と同じ穴窯を備え、焼成時にかかった灰による明るい自然釉が見事な装飾となる、その景色も魅力のひとつでした。また、登窯の到来とともに考案された木灰釉を中心として、ワラ灰、栗のイガ灰などを使用。現在も釉薬の主流を占めており、その他土灰釉・鉄釉(黒釉)・白釉なども使用されています。登窯導入と同時期に、取り入れられた「蹴りロクロ(日本では珍しい立杭独特の左回転ロクロ)」といった独特の技術も現代に継承されています。
丹波焼は、草創期には常滑焼の影響を受けました。室町時代までは、丸みのある体部に大きく外反する口縁部を持つやきものが主流でしたが、室町時代後期、玉縁と呼ばれる破損しにくいスタイルへと変化。皿類や徳利などの日用陶器が主要な生産器種となりました。磁器が普及し陶器徳利などの生産が落ちると、耐酸瓶や園芸用品などを幅広く生産。時代の変遷とともに、暮らしに密着した日用陶器をつくり続けています。
提供:丹波立杭陶磁器協同組合
戦後しばらくは日常生活物資の不足によって、壷や甕・すり鉢などの需要により、生産高は順調に伸びましたが、やがてこれが飽和状態となりました。その後、機械ロクロの普及により、戦前からの硫酸瓶や土管等の工業用品や、駅売りの汽車茶瓶・どんぶり鉢、さらには陶器ブロックや瓦、菰被(こもかぶ)り用酒樽などが大量に製造されるようになり、伝統的な丹波焼は大きく姿を変えました。食器や花器といった日常使いの民芸品として歴史を重ね、現代のライフスタイルに合わせた新たな丹波焼もつくられています。
写真:加藤晋平
江戸時代、鮮やかな赤色の土を塗土として使用した丹波焼の茶壺は珍重され、すり鉢とともに京・大坂・江戸の3都に大量に輸出されました。消費地への輸送、販売は1654(承応3)年に制度化された「窯座」が独占し、その後篠山藩が経営する座方へ移り、やがて丹波焼は全国に広がります。丹波焼は、伝統的な技法や窯場が残っているため、昭和初期に、柳宗悦やバーナード・リーチの民芸の立場から、美術品的にも高い評価を受けました
古丹波 壺〈慶長拾八年二月吉日 上吉右衛門 源十郎〉刻銘アリ
1613年/高さ32.2㎝/所蔵:丹波古陶館
一時期は衰退した丹波焼。河井寛次郎やバーナード・リーチにその魅力を見出され再び活気を取り戻しました。現在でもおよそ60の窯元が残り、若い世代も活発に活動を続けています
平安時代
産声をあげる丹波焼
今田町の三本峠北窯の捨て場から、刻面画のある古丹波を中心に甕や壺が出土し、この頃が丹波焼の開窯時期とされています。
碗
平安時代/所蔵:丹波篠山市/平成12年 三本峠北窯跡発掘調査出土品
鎌倉時代〜室町時代
丹波焼の穴窯時代
江戸時代までは、山腹に穴窯を築いて焼成が行われていました。穴窯で焼成すると、原料の土や燃料が得やすく、窯を築く際に山の斜面を利用することができたからです。この頃には、紐土巻き上げづくりの水甕、油壺、種壺などの大型のやきものがつくられていました。
提供:丹波立杭陶磁器協同組合
江戸時代
丹波焼の代名詞となる登窯の登場
1592(慶長16)年、朝鮮から日本に登窯が伝えられました。登窯は一度に多くの製品を焼成することができ、期を同じくして蹴りロクロが普及したことで、大量生産が可能となりました。丹波焼は画期的な時代を迎えます。
古窯跡
平成12年 三本峠北窯跡発掘調査
多様な製品、多様な技術
新しい技術の導入により、質・種類ともに中世とは違ったものがつくられます。山椒壺、茶器類、徳利など製品が多様化しました。それによって、新しい釉薬や技巧も生まれたのがこの時代です。また、藩内の特産業である丹波焼を育成し、藩の財政収入を図ろうとした篠山藩は、承応3年に大坂商人を座元とした窯座を設け、経営と製品の専売にあたらせました。
丹波 赤土部灰釉甕
江戸時代前期(17世紀)/所蔵:兵庫陶芸美術館(田中寛コレクション) 兵庫県指定重要有形文化財
明治時代〜昭和初期
時代の需要に応えた丹波焼
明治に入ると、鉄道開通やトラック輸送の発達により、関西一円へ販路が拡大していきました。この頃の主要生産品は、酒や醤油の一升徳利。大正時代には中型徳利、昭和初期には植木鉢と、時代の需要に即した商品を生産していきました。また、1937(昭和12)年の日中戦争を期に、戦時色は丹波焼にも及び、硫酸ビンが大量に生産されたほか、第二次世界大戦の際には、摂丹兵器製作所が設置され陶製の地雷薬莢も製造していました。
提供:丹波立杭陶磁器協同組合
昭和時代〜現代
戦争を経て、丹波焼の発展
日常生活雑器の不足で、戦後は壷、甕、鉢などの生産高が順調に伸びました。また、昭和初期頃から展開された民芸運動のなかで、丹波焼の持つ美しさが大きな位置をしめ、戦後になって浜田庄司、河井寛次郎、バーナード・リーチなどから高い評価を受けるようになり、世界的評価も高まります。1958(昭和33)年、ブリュッセル万国博覧会における陶器部門において、市野弘之制作の火鉢がグランプリ賞を受賞。丹波焼は世界的に周知されました。
提供:丹波立杭陶磁器協同組合
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